2014年03月22日
桜にかけた想い
神奈川県横浜市戸塚区にある、和食料理・日本料理・寿司をご提供させていただいております、きじま女将のブログです。
きじまのお花としつらいの
スタイリスト
たんのふみこさんより
この週末から
店頭に活けた「陽光」という桜にまつわる物語を
教えていただきました。
みなさまへご紹介させていただきます
~見ている人に向いて咲く~
父、高岡正明は、1940年(昭和15年)から青年学校で教鞭をとっていました。
戦争開戦で、村の若者は次々と戦場に駆り出された。
「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、
数百名の教え子の出征を見送り「絶対に負けない」ほんとうに父は
心からそう信じていたそうです。
1945年(昭和20年)終戦。
戦争中もそして戦後も教え子たちの
戦死の知らせが次々と父のところに届いた。
「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」
父は落胆と自責の念で胸が張り裂けんばかりだった。
泣きながら毎日自分を責めて暮らす日々が続いた。
あのきれいに咲いたさくらの下で記念写真を撮った
生徒の一人一人の面影を思い出して、
できるなら教え子一人一人の亡くなった地を訪ね、
供養をして歩きたい、
そんな思いにかられたこともあったそうです。
終戦後、青年学校もなくなり
父・正明は狭い畑を耕しながら
細々と暮らしを続けていたそうです。
そんなある日、父が青年学校の跡地を訪ねた折、
ふと見上げると、思い出の校庭に
さくらが満開に咲いているのを見て、
当時の教え子たちとの思い出が
次から次へと脳裏をよぎったそうです。
父はその時決心し
「二度と戦争のない平和な世界は
自分たちの手でつくらなければならない。
そのためには生徒一人一人の命の証であり
平和の象徴でもあるさくらをつくり、
世界に広めてゆくことが
自分の残された人生の最大の仕事だと考え、
世界を視野に
どこにでも適応できる桜を開発する必要がある。
その後の父の執念には凄まじいものがあった。
私財を投げ出し、新しいさくらをつくるため
日本中を尋ね歩く日々が始まった。
尋ねた土地から色々な品種のさくらが自宅に届けられた。
朝から晩まで毎日々文字通りのさくら、さくらの日々が続き、
失敗を繰り返しながら、品種改良に没頭し、
20数年が経過
ようやく病気にも強く、厳しい気候にも耐えうることを発見
この時にようやく
今までにみたこともない大輪で
紅色の強い丈夫な品種が誕生し、
新しいさくらとして注目されるようになりました。
父はこの新しい品種のさくらを
「天地に恵みを与える太陽」という意味を持つ
「陽光」と名づけた。
以来この「陽光」の量産に取り組み、
お蔭様で、ようやく、花期、花色、樹勢ともに満足できる新しい桜
「陽光」を完成する事ができました。
日本では戦国時代には、
散り際のいさぎ良さが尊ばれてまいりました。
俳句の世界では単に「花」と言えば「桜」を指すきまりになっており、
いつの時代でも桜が日本人の心と深く結び合ってきたことがわかります。
今、桜は日本人の平和と繁栄の象徴として、
各地に新しい「桜並木」や「桜群落」を形成し始めています。
国外では尾崎行雄(旧東京市長)が贈った
ワシントン・ポットマム河畔の桜が有名ですが、
弘法大師ゆかりの中国・西安市へ
四国の友好団体が寄贈した 1,000本や、
杉原千畝が6,000人のユダヤ人に命のビザを発行した、
リトアニア共和国の1,200本の桜が開花するようになりまた。
「バチカン法王 庁の庭園で桜を見た」というお便りをいただき、
特徴の花色から父がローマ法王にお贈りした
「陽光」とわかり大変感激いたしました。
父は2001年9月、享年92才でなくなりましたが
無償で寄贈した桜の苗木は約5万本余でした。
この「陽光さくら」は
この週末から、順々に
きじま各店の店頭に活けられる予定です。
たんのふみこさん
素晴らしい物語を教えてくださり
ありがとうございます!
私も、初めて見るこの桜
開いたところを見るのが
とても待ち遠しいです。
こちらは、最初に活けた「雅の桜」の前で
新横浜店のスタッフたちです
桜と着物がベストマッチ!!

こちらは川崎店のスタッフたちです。

きじまの仕入れ部
活魚部のブログ『活魚の達人』も
是非!ご覧ください!
こちらをクリックしてくださいませ
◆公式サイトはこちらから◆
http://www.kijimagroup.co.jp/


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この週末から
店頭に活けた「陽光」という桜にまつわる物語を
教えていただきました。
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父、高岡正明は、1940年(昭和15年)から青年学校で教鞭をとっていました。
戦争開戦で、村の若者は次々と戦場に駆り出された。
「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、
数百名の教え子の出征を見送り「絶対に負けない」ほんとうに父は
心からそう信じていたそうです。
1945年(昭和20年)終戦。
戦争中もそして戦後も教え子たちの
戦死の知らせが次々と父のところに届いた。
「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」
父は落胆と自責の念で胸が張り裂けんばかりだった。
泣きながら毎日自分を責めて暮らす日々が続いた。
あのきれいに咲いたさくらの下で記念写真を撮った
生徒の一人一人の面影を思い出して、
できるなら教え子一人一人の亡くなった地を訪ね、
供養をして歩きたい、
そんな思いにかられたこともあったそうです。
終戦後、青年学校もなくなり
父・正明は狭い畑を耕しながら
細々と暮らしを続けていたそうです。
そんなある日、父が青年学校の跡地を訪ねた折、
ふと見上げると、思い出の校庭に
さくらが満開に咲いているのを見て、
当時の教え子たちとの思い出が
次から次へと脳裏をよぎったそうです。
父はその時決心し
「二度と戦争のない平和な世界は
自分たちの手でつくらなければならない。
そのためには生徒一人一人の命の証であり
平和の象徴でもあるさくらをつくり、
世界に広めてゆくことが
自分の残された人生の最大の仕事だと考え、
世界を視野に
どこにでも適応できる桜を開発する必要がある。
その後の父の執念には凄まじいものがあった。
私財を投げ出し、新しいさくらをつくるため
日本中を尋ね歩く日々が始まった。
尋ねた土地から色々な品種のさくらが自宅に届けられた。
朝から晩まで毎日々文字通りのさくら、さくらの日々が続き、
失敗を繰り返しながら、品種改良に没頭し、
20数年が経過
ようやく病気にも強く、厳しい気候にも耐えうることを発見
この時にようやく
今までにみたこともない大輪で
紅色の強い丈夫な品種が誕生し、
新しいさくらとして注目されるようになりました。
父はこの新しい品種のさくらを
「天地に恵みを与える太陽」という意味を持つ
「陽光」と名づけた。
以来この「陽光」の量産に取り組み、
お蔭様で、ようやく、花期、花色、樹勢ともに満足できる新しい桜
「陽光」を完成する事ができました。
日本では戦国時代には、
散り際のいさぎ良さが尊ばれてまいりました。
俳句の世界では単に「花」と言えば「桜」を指すきまりになっており、
いつの時代でも桜が日本人の心と深く結び合ってきたことがわかります。
今、桜は日本人の平和と繁栄の象徴として、
各地に新しい「桜並木」や「桜群落」を形成し始めています。
国外では尾崎行雄(旧東京市長)が贈った
ワシントン・ポットマム河畔の桜が有名ですが、
弘法大師ゆかりの中国・西安市へ
四国の友好団体が寄贈した 1,000本や、
杉原千畝が6,000人のユダヤ人に命のビザを発行した、
リトアニア共和国の1,200本の桜が開花するようになりまた。
「バチカン法王 庁の庭園で桜を見た」というお便りをいただき、
特徴の花色から父がローマ法王にお贈りした
「陽光」とわかり大変感激いたしました。
父は2001年9月、享年92才でなくなりましたが
無償で寄贈した桜の苗木は約5万本余でした。
この「陽光さくら」は
この週末から、順々に
きじま各店の店頭に活けられる予定です。
たんのふみこさん
素晴らしい物語を教えてくださり
ありがとうございます!
私も、初めて見るこの桜
開いたところを見るのが
とても待ち遠しいです。

こちらは、最初に活けた「雅の桜」の前で
新横浜店のスタッフたちです


こちらは川崎店のスタッフたちです。

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Posted by きじま at 11:04│Comments(1)
│季節の花
この記事へのコメント
こんにちは。紹介して頂いてありがとうございます。日本人が桜を愛するには、いろいろな歴史もあるのですね。話が外れるかもしれませんが、邪魔だからとかなんだとかで木々を簡単に切ってしまうのは、歴史も切っていることいもつながる感じがします。
Posted by のんた at 2014年03月22日 13:57
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